カントの超越論的哲学

Nagai, Toshiya
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たんに感性的所与を記述しただけの「今、私には、かくかくのように見える」という命題は、間違うことはない。また「AかつAでないということはない」という矛盾律も絶対的に正しい。なぜならば、それは誤謬を誤謬と判断する基準そのものであるからだ。しかし、こうした「真理」は、真理の名に値しない最も貧しい真理である。真理の名に値する真理を獲得するには、確実だが、狭い真理の領域から《超越》しなければならない。そのような超越が可能かどうかを論じる哲学が、超越論的哲学である。

超越論的哲学の源泉となったイマヌエル・カントの哲学では《超越論的 transzendental》は《超越的 transzendent》から区別される。ドイツ語の接尾辞“-al”には、「…に関する」という意味があり、したがって、超越論的哲学における認識とは超越に関する認識ということになる。全知全能の存在者が限界を持たず、したがって限界を認識することもないので、端的に超越的であるのに対して、有限な存在者は自己の限界を意識せざるをえず、その認識の様態は超越論的になる。

ソクラテスは、「無知の知」ゆえに、すべてを知っていると僭称する他の人々よりも優れていた。「生兵法は大怪我の基」という諺にある通り、自分の能力の限界を知らない人ほど、大失敗をするものだ。自分の無知を心得ている人は、無理をしないし、その限りでは利口なのである。この意味で、自分の認識に限界があると認識できる人は、実は自分の認識の限界を超越している。限界の内部にいる人には、限界が見えない。限界を超越して初めて、限界を認識することができる。カントもまた、「無知の知」ゆえに、たんなる無知以上の智者だった。

カント以前の哲学者たちは、認識とは物自体の認識であると考えていた。大陸における合理論的哲学者たちは、それが可能であるとする独断論的主張を行い、英国における経験論的哲学者は、それを疑問視する懐疑論的な結論を下した。カントは、合理論的独断論者と経験論的懐疑論者が共有していた「認識とは物自体の認識である」という大前提を否定し、物自体から区別された現象を認識の対象とすることで、アプリオリな総合判断が可能であると考えた。

私たちは、不完全であっても、世界を理性的に認識しようとするし、道徳法則に従って理性的に行為しようとする。理論的ならびに実践的な意味で人間理性によって理性的に創られた現象界は、理性を究極目的としているとみなすことができる。この歴史観は、人間原理の哲学バージョンと名付けることができる。人間原理とは、宇宙において人間に特殊な地位を与えない宇宙原理とは対照的に、観測可能な宇宙における観測者に特別な地位を与える原理である。マルチバース全体を物自体、観測可能なこの宇宙を現象界なぞらえるなら、人間原理とカントの超越論的哲学との間に類似性を見出すことができる。したがって、カントの超越論的哲学は、超越論的目的論として特徴付けることができる。

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About the author

著作家。インターネットを主な舞台に、新たな知の統合を目指す在野の研究者。専門はシステム論。1965年8月、京都生まれ。1988年3月、大阪大学文 学部哲学科卒業。1990年3月、東京大学大学院倫理学専攻修士課程修了。1994年3月、一橋大学大学院社会学専攻博士後期課程単位修得満期退学。 1997年9月、初めてウェブサイトを開設。1999年1月、日本マルチメディア大賞受賞。電子書籍以外に、紙の本として『縦横無尽の知的冒険』 (2003年7月, プレスプラン)、『ファリック・マザー幻想』(2008年12月, リーダーズノート)を出版。
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Publisher
Nagai, Toshiya
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Published on
Dec 4, 2014
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Pages
333
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Features
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Language
Japanese
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Genres
Philosophy / Criticism
Philosophy / Epistemology
Philosophy / Ethics & Moral Philosophy
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現象学は、客観的な認識対象とも主観的な認識作用とも異なる認識内容としての現象を扱う哲学である。それは、人間の意識を経験論的ないし客観的に対象化する心理主義とは異なるが、新カント学派のような規範主義とも異なる第三の立場の哲学である。エトムント・フッサールの現象学は、様々な変遷を経たが、認識を直観的な理解に基礎付けようとする点では一貫している。フッサールから現象学を学んだマックス・シェーラーは、経験主義的な快楽主義あるいは功利主義でもなければ、カントの倫理学のような形式主義的な規範倫理学とも異なる、現象学的な、つまり直観に基づく実質的価値倫理学を提唱した。しかし、現象学は、認識を基礎付けてはいるものの、認識の妥当性の基礎付けは行っていない。認識を正当化するには、私たちの認識行為を含めたあらゆる行為の究極目的を認識しなければならない。本書はこの問題意識から、現象学的還元・構成・破壊自体を還元・構成・破壊するメタレベルの目的論的還元・構成・破壊を提唱する。

 【冒頭抜粋】今、あなたは美術館で絵画を鑑賞し、その美しさに感銘を受けているとしよう。その時あなたが美しいと感じているものは何だろうか。私が見ている対象は画布に塗りつけられた絵具の広がりであるが、白い絵の具の正体は酸化チタンで、赤い絵の具の正体はセレン化カドミウムであるなどの科学的知識は、絵画の鑑賞には役に立たない。私は絵具を見ているのでもなければ、その色を見ているのでもない。絵の具の色によって表現されている、たんなる物質以上のものを見ているのである。

もちろん、それは絵画を形作っている物理的対象に依存していることは確かである。だが、それは物理的対象によって一義的に決められるものでもない。例えば、ウサギ-アヒルの両義図形は、ウサギとして見ることもできれば、アヒルとして見ることもできる。同じ物理的対象を見ているにもかかわらず、違ったものを見るということは、それは客観的実在としての物理的対象以上のものを見ているということである。

科学者の中には、謂う所の現象なるものは、脳が勝手に作り上げた幻想であり、大脳生理学が進歩を遂げれば、その正体が科学的に解明されるに違いないと考える人もいるだろう。たしかに、fMRI を使って脳をスキャンすれば、私が絵画を見て「美しい」と感じている時に、脳内で特定の血流動態反応が起きていることを確認することができるかもしれない。しかし、脳血流動態自体が美しいわけではなく、私が美しいと感じているものは、それとは別に存在しており、両者の間には、対応関係しか存在しない。

このことをはっきりさせるために、哲学者たちは、認識の対象と内容と作用を区別している。対象と内容が異なるがゆえに、同じ絵という対象に対して、ウサギあるいはアヒルという別の内容が知覚されうるのであり、また、内容と作用が異なるがゆえに、知覚された内容としての現象を心理学的ないしは生理学的な作用と同一視することができないのである。フッサールの現象学が注目するのは、科学者たちや従来の哲学者たちが軽視してきた、対象でも作用でもない内容という第三の領域である。

現象学(Phänomenologie)という呼称を最初に用いたのは、フッサールではない。ドイツの科学者、ヨハン・ハインリッヒ・ランベルトは、真理についての学問から区別された仮象についての学問という意味で、18世紀にこの言葉を使ったことがあった。実証主義者にとって、仮象は誤謬と同じで、何の価値もないが、文学者や芸術家といった、フィクションを作ることを仕事としている人にとって、仮象は重要な意味を持っているし、今日現象学に興味を持つ人は、これらの分野に興味を持つ人が多い。

フッサールが、「志向性」という概念とともに「現象学」という言葉を使うようになったのは、恩師であるフランツ・ブレンターノの影響である。ブレンターノは心理学者で、彼にとって、現象学というのは記述的心理学と同じような意味だった。フッサールは、1891年にブレンターノの影響下で『算術の哲学』第一巻を刊行したが、ブレンターノ的な心理主義を放棄したため、第二巻の出版を断念した。しかし、フッサールは完全な客観主義者になることはなかったし、その意味では、ブレンターノの影響はその後も残ったと言える。

いずれにせよ、フッサールが目指したのは心理学ではなくて哲学であったから、第三領域としての現象を記述することに甘んじることはなかった。哲学は、古代ギリシャの時代より、アルケー(始原)を問い求める学問であり、フッサールも現象の基づけを試みようとした。『算術の哲学』では、数えるという心的作用に自然数を基づけようとし、そうした心理主義を放棄した後も、現象学的還元(超越論的還元)により、現象を形相や超越論的な自我へと還元しようとした。本書のタイトル『現象学的に根拠を問う』もフッサールの現象学的還元を念頭に置いて付けたタイトルである。

本書では、フッサールとともに、フッサールの高弟であったシェーラーを取り上げる。フッサールが、認識作用の規範性を重視したカントの哲学を批判し、直観的な認識内容を重視したのと同じように、シェーラーは、行為の形式的規範を重視したカントの倫理学を批判し、実質的価値内容に対する直観を重視する倫理学を提唱した。フッサールは、シェーラーをハイデガーとともに、現象学を人間学化しているとして批判したが、フッサールが価値についてあまり語っていないので、本書では現象学を倫理学に応用する試みとして、シェーラーの倫理学を取り上げ、批判的に検討する。

結論を大雑把にまとめるなら、私たちの概念的理解の根底には直観的理解があるというのが現象学の基本的主張であるが、この認識によって、認識一般を基礎付けることはできても、その認識が真であることは基礎付けられない。この点において、フッサールの現象学的還元は、現象の基礎付けとして不十分であり、シェーラーの現象学的倫理学も、同様に、価値判断が真であることの基礎付けにはなっていない。フッサールの現象学的還元を批判的に継承し、理論的ならびに実践的命題の究極的基礎付けを行うこと、これが本書の課題である。

社会システムとは、ダブル・コンティンジェンシー、すなわち、自己の選択と他者の選択が相互に相手の選択に依存している二重の不確定性を縮減する機能である。パーソンズも、ルーマンも、ダブル・コンティンジェンシーがいかにして縮減されるのかを根源的に説明しておらず、彼らの説明は、畢竟「社会システムが存在するから、社会システムは存在する」という循環論法を越え出るものではなかった。ルーマンの社会システム理論は、オートポイエーシス論と称して、その循環論法に居直ったが、社会システム理論をオートポイエーシス論に限定することは、たんなる視野狭窄しかもたらさず、それをシステム理論のパラダイム転換と評価することはできない。

ダブル・コンティンジェンシーがもたらす囚人のディレンマから抜け出すには、高資本の媒介的第三者が必要である。媒介的第三者は、言語、貨幣、刑罰などのコミュニケーション・メディアを通じて、社会的エントロピーを縮減するのだが、従来の社会システム理論では、こうした媒介的第三者の役割が正しく評価されていなかった。本書は、市場や資本の概念を、経済システムにおいて適用される狭義の概念から、家族システム、文化システム、政治システムにおいても適用される広義の概念へと拡張し、結婚市場、言語市場、政治市場での交換による評価のメカニズム、身体資本、文化資本、社交資本の非対称な蓄積のプロセス、支配のロジックと物象化の問題点を社会システム論の立場から幅広く考察する。

本書は、この問題意識に基づき、第一章で、交換としての認識、交換としての結婚、交換としての復讐を取り上げ、これらの交換が、貨幣というコミュニケーション・メディアを通じた経済的交換と同一の構造を持つことを示し、文化システム、家族システム、政治システムにおけるコミュニケーション・メディアの役割と資本蓄積の格差について説明する。第二章では、家族システムにおける父、政治システムにおける権力者、文化システムにおける神といった抑圧的な存在として君臨する媒介的第三者を描き、第三章では、反逆を鎮圧する暴君としてではなく、人々を自発的に服従させ、訓育し、支配する現代の権力のあり方を論じる。

二十世紀の英米の哲学は、言語哲学として特徴づけられる。デカルト以来、哲学者は意識に知の源泉を求めてきた。しかし、意識は言語を通じて認識活動を行っ ているのであり、言語を分析せずして認識の基礎付けを行うことはできない。また、言語は最初から社会を前提としており、意識哲学のように、間主観性の問題 で迷宮入りすることはない。本書は、ウィトゲンシュタイン、クワイン、ムーア、ヘアー、サール、ロールズ、ノージックなど、論理学研究から言語行為論へ、 実証主義から形而上学へ、メタ倫理学から規範倫理学へと変貌を遂げた英語圏の思想界を代表する論理学者、哲学者、倫理学者、社会哲学者の理論を批判的に検 討しつつ、超越論的言語哲学の可能性を探り、言語行為とその規範を超越論的目的論の立場から考える。

【冒頭抜粋】もしも哲学者に「哲学とは何か」と尋ねたなら、哲学者ごとに様々な答えが返ってくるだろう。それぐらい哲学の位置付けは定まっていない。哲学が発祥した古代ギリシャで、フィロソフィアが「知を愛する」という意味だったという語源的知識は役に立たない。当時の「哲学」は、現在の学問一般を表すほど幅広い領域を包括する概念だったからだ。1687年に、アイザック・ニュートンが物理学の古典『自然哲学の数学的諸原理』を書いた頃、そのタイトルが示すように、物理学は依然として自然哲学とみなされていた。その後、専門的な諸科学が哲学から独立する中で、抜け殻のように残った部分が今日「哲学」と呼ばれている学問なのである。 

この点、アリストテレスが第二哲学である自然学から区別した第一哲学(プローテー・フィロソフィア)が、現在使われている「哲学」の概念に近い。アリストテレスは、自然学や数学のように特殊な諸存在ではなく、存在一般の本質、アルケー(原理)を研究する学を第一哲学と呼び、マルティン・ハイデガーもこの定義を継承して、哲学としての存在論を復活させようとした。ハイデガーによれば、諸科学が様々な存在者を研究対象としているのに対して、哲学は、様々な存在者を基礎付ける存在そのものを問わなければならない。 

アリストテレスは、アルケーとして不動の動者、つまり神を想定したが、すべてのギリシャの哲学者が同じ考えであったわけではない。アリストテレスが「哲学の始祖」とみなすタレースは、アルケーが水だと考えていたし、アルケーという言葉を最初に哲学的に用いたアナクシマンドロスは、アペイロン(無限定なもの)をアルケーとみなしていた。この他、いちいち列挙しないが、様々な哲学者たちが様々なものをアルケーと考えた。しかし、彼らは、アルケー、すなわち世界の究極の原理を探求しようとする共通の姿勢を持っていた。そこで、第一哲学、すなわち現代の意味での「哲学」とは、アルケーが何であるかを探求する学問であると定義することができる。アルケーが何であるかに関して、哲学者の意見はばらばらであるが、それは狭義の哲学が定義できない学問であるということを帰結しない。結論が学者によって異なるという状況は他の学問でも見られることだからだ。

近代になると、ルネ・デカルトが『第一哲学についての省察』における方法的懐疑を通して、自己意識をアルケーとする新しい哲学を提唱した。この意識哲学の伝統はエトムント・フッサールの現象学まで西洋哲学の主流として続くが、20世紀になると、言語論的転回が起き、アルケーを意識ではなく、言語に求める動きが生まれる。本書の主たる検討対象となる分析哲学は、言語論的転回を惹き起こした主要な哲学的潮流である。

科学が独立した後の抜け殻となった哲学は、常に科学とどう違うのかが問われる。例えば、意識哲学は意識を対象とする科学である心理学とどう違うのか、そして言語哲学は言語を対象とする科学である言語学とどう違うのかが問われる。そういう時、哲学は派生的な対象についての学ではなくて、アルケーの学であるという定義に立ち戻ればよい。

科学者にとって、心理は、生物学によって、より根源的には物理学と化学によって基礎付けられる派生的な一対象にすぎない。ところが、意識哲学にとって、すべての科学は意識によって基礎付けられる派生的な学にすぎない。なぜなら、どのような対象も必ず意識を通して認識されるのであり、意識と対象の関係を見誤れば、すべての知が間違いを犯すことになるからだ。この意味で、意識はすべての知識のアルケーである。

同じことは、言語についてもあてはまる。言語は、人類学、民俗学、社会学といった実証的な科学にとって、たくさんある研究対象の一つにすぎない。言語学という専門的な科学においても、研究の媒体としてではなく、研究の対象として扱われる。これに対して、言語哲学は、言語をあらゆる認識の媒体として位置付ける。私たちの認識は、言語を通じて意味付けられるので、言語は私たちの認識の制約条件であり、言語の意味と対象との関係を見誤れば、すべての知が間違いを犯すことになる。この意味で、言語はすべての知識のアルケーである。

なぜ意識の代わりに言語がアルケーとみなされるようになったのか。どちらも認識の制約条件ではあるが、意識が抽象的で捉えどころのない実体であるのに対して、言語はより具体的で分析しやすいという利点がある。もっともそれだけなら、精神と物体の両義性を帯びた身体にアルケーを求めたモーリス・メルロー=ポンティの現象学にも同じことが当てはまるのだが、言語哲学には、フッサールやメルロー=ポンティの現象学にはないメリットがある。それは、意識であれ、身体であれ、自我から始める現象学では、間主観性の問題で袋小路に入ってしまうのに対して、言語は最初から他者の存在を前提にしており、言語をアルケーとすることで、間主観的にその存在と認識が規定される私たちの本質が解明されるという点だ。この点を踏まえ、本書では、アルケーとしての言語を主題として、二十世紀の英米の哲学、倫理学、社会哲学を批判的に検討してみたい。

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