後鳥羽天皇(1180年~1239年)鎌倉初期の天皇。1183年~1198年在位。高倉天皇の第四皇子。母は坊門信隆の女の七条院藤原殖子。一一八三年(寿永2)安徳天皇が平家とともに都落ちしたため、祖父の後白河法皇に選ばれて即位した。これは同母兄に守貞親王が平氏に連れ去られたことによるものであり、守貞が生還し、さらに1192年(建久3)後白河上皇死去したのち、その立場は微妙であった。1198年源頼朝の異議を退け、19歳の若さで長男の土御門天皇に譲位。これによって彼の権威はようやく確立される。ついで直系継承者に三男(順徳天皇)を選び、1200年(正治2)これを皇太弟に縦1210年(建保6)順子の子(仲恭天皇)を立太子させ皇位継承を自らの意思で進めた。この間に、貴族社会が家格の秩序を確立する趨勢に乗り、九条家を近衛家と並ぶ摂関家に取り立てるなど、多くの公卿家の成立と価格の獲得と助成して、貴族の総体的融和を図り、院政の支持基盤を拡大させた。側近には外戚・婚姻・乳母関係にある貴族という従来型のものとともに、親幕府貴族グループを加えている点に特色がある。幕府に対しては穏健な態度をとった。幕府は頼朝の死後しばらく動揺するが、これに干渉せず、その自主的な再建を見守った。朝廷と幕府の関係は彼と3代将軍源実朝との親密化を基礎に安定する。実朝の妻に生母の姪で妻の妹である坊門信清女を配し、縁戚の絆がる九条家、一条家、坊門家、西園寺家らの親幕府貴族グループを重用し、院政の主要な支え役とした。院御所の西面に祗候させた武士も多くは幕府御家人である。幕府を友好的に支配しようする政策は成功を収めており、彼は早くから倒幕の意思があったとする見方は当を得ないあ。後鳥羽院政は159年来の院政の到達点にあり、院政主導型という、朝廷・幕府体制の本然的形態を実現した。幕府では実朝に子がいないために、次期将軍に後鳥羽上皇の皇子を迎える案などを立て、1218年北条政子が入洛して打診したのに対して側近の藤原兼子を通じて内諾を与えた。皇子将軍という幕府の新体制に準備が進めらえたがその途上、1219年(承久元)突如実朝が殺害される。これが破綻の始まりであった。