戦国時代初期、伊達稙宗とその子・晴宗の壮絶な親子喧嘩、いわゆる天文11~17年(1542~48)の6年にもわたる天文の乱により、東北の勢力は大きく様変わりした。
このような会津地方の混乱に乗じたのが、天文の乱の傷がようやく回復した伊達氏である。ちょうどそのころ塩松地方に拠っていた大内定綱が伊達氏と敵対していたが、定綱は伊達に敗れ蘆名領に落ち延びる。伊達氏では、 伊達輝宗が隠居して子の政宗が家督を継承。しかし、大内氏を討伐するついでとばかりに臣従させた二本松氏の当主・二本松義継によって、天正13年(1585)の10月8日に輝宗が死亡してしまう事件が起こる。この事件にぶちぎれた政宗は、その一週間後にお礼参りとばかりに1万3千もの大軍で二本松討伐を敢行。二本松氏の居城、二本松を取り囲んだのである。攻め込まれた二本松氏は、輝宗死亡の際に同時に当主の義継が殺されたものの、その遺児である国王丸を擁立して籠城戦を展開し、それと同時に周辺の大名たちに援軍を要請した。約1か月後には、常陸の佐竹義重、相馬義胤ら連合軍が挙兵し、二本松城に3万ともいわれる大軍を差し向けた。
著者紹介
1943年東大阪市生まれ。著書紹介・歴史研究会に参加、