またこれに似た「三浦の乱」が三浦の乱(さんぽのらん)
中宗5 (1510) 年,朝鮮の三浦 (薺浦〈せいほ〉,富山浦〈ふざんぽ〉,塩浦〈えんぽ〉) に起った日本人居留民の暴動事件。庚午の倭変ともいう。これより前,朝鮮王朝 (李朝) は海防を強化して倭寇にそなえ,懐柔や武力討伐などの倭寇壊滅策をとる一方,日本に使臣を送り倭寇禁圧を要請した。日本でも室町幕府の統制が強まり,西国の有力守護や豪族などが倭寇禁圧と倭寇に拉致された朝鮮人捕虜の送還に努力した。こうして朝鮮王朝と幕府,西国の封建領主間に交易関係が結ばれ,使節の相互往来も盛んとなった。朝鮮は薺浦 (現慶尚南道昌原郡熊川面) ,富山浦 (現慶尚南道釜山市) ,塩浦 (現慶尚南道蔚山市) に限定して日本人の貿易を許し,倭館を設けた。三浦に住む日本人は恒居倭 (こうきょわ) と呼ばれ,世宗 18 (1436) 年に 60戸の居住が許されたが,15世紀末には薺浦 347戸,2500名,富山浦 147戸,453名,塩浦 51戸,152名に達した。その人数が次第に増加するにつれて,密貿易など違反,非行者が続出した。片貿易や国庫の欠亡に苦しむ朝鮮王朝では中宗が即位すると諸政改革の一環として,日本貿易にも厳重な統制を加え,恒居倭の居住権も制限した。これに憤慨した恒居倭は,対馬からの兵船数百隻の応援を得て反乱を起したが,朝鮮の圧倒的な軍事力の前に敗退。その結果,日朝間の通交貿易関係は断絶した。2年後に壬申条約が結ばれ修交関係の復活をみたが,薺浦1港に限られ,歳遣船,歳賜米も減少し,恒居倭は認められなかった。
著者紹介
1943年東大阪市生まれ。著書紹介・歴史研究会に参加、