寿永二年七月二十五日、木曾義仲の勢威に怖れをなした平家は安徳天皇を奉じて西国へ落ちていった。二十八日には比叡山東堂に隠れていた後白河法皇を守護し、義仲は五万余騎で都入りを果たす。法皇を守護するのは近江源氏山本の冠者義高(錦織義高、源義光の子孫)で、十郎蔵人行家は宇治橋を渡って入洛、矢田判官代義清は大江山を経て都へ入る。そのほか摂津、河内の源氏が雲霞のごとくなだれ込んでくる。義仲、行家は院参し、平家追討の院宣を下される。さらに院では、平家の西走とともに連れ去られた安徳天皇にかわる天皇の擁立が検討され、高倉天皇の四の宮(後の後鳥羽天皇)が天皇として擁立される。八月十日、院では除目が行われ、義仲は左馬頭に任命され越後国を与えられるとともに、“朝日の将軍”の称号を賜る。行家は備後守になるが、それぞれ知行国に対する不満を訴え、義仲は伊予国を、行家は備前国を与えられる。さらに十六日には平大納言時忠、内蔵頭信基、讃岐中将時実を除く、平家一門百六十余人の官職が留められた。
そんな中、頼朝は鎌倉に居ながら征夷将軍の院宣を下されることとなり(史実では建久三年)、左史生中原泰定(伝未詳。高倉院の厳島御幸に同行した)が使いとして東国に下る。頼朝は使いの泰定を自分の館に招き、さまざまにもてなした。都へ帰った泰定は、頼朝と面会した一部始終を報告すると、後白河はいたく感心し、いよいよ頼朝を頼りとするようになった。
義仲は二歳から三十になるまで木曽の山里に住んでいたため、万事が不作法であり、言葉つきも野卑だった。評判は芳しくなかった。
さて、そうこうするうちに平家は屋島にあって山陽道八ヶ国、南海道六ヶ国、都合十四ヶ国をおさえ、着実に勢力を盛り返しつつあった。そこで義仲は矢田判官代義清を大将軍、海野弥平四郎行広(清和源氏の滋野氏)を侍大将として、七千余騎を屋島に差し向ける。軍勢が備中国水島の港から、すでに屋島に押し寄せようとするそのとき、大手は新中納言知盛、搦め手は能登守教経を大将軍とする(史実では重衡・通盛)平氏軍が押し寄せてきた。平氏軍は千余艘の船をことごとくつなぎ合わせて、船から船へ行き来できるようにして戦った。侍大将の海野は討たれ、義清も主従七騎で小舟に取り乗って逃れようとするが、船が転覆して命を落とす。源氏の軍勢は総崩れになり、ここに平家は都落ち以来の雪辱を果たした。 これを聞いた義仲はいよいよ平家打倒の決意を固め、自ら一万余騎を引き具して山陽道を下る。備中国万寿の庄で勢揃えし、今にも屋島へ攻め寄せようとしている義仲のもとへ、京に残っていた樋口次郎兼光からの使者がやって来た。義仲が留守の間に、行家が義仲のことを院に告げ口しているという。摂津国を経由して急ぎ京へとって返す義仲だが、一方の行家は義仲と顔を合わせないよう、入れ違いで丹波路を経由して播磨国に下った。
著者紹介
1943年東大阪市生まれ。著書紹介・歴史研究会に参加、